戸澤家と新庄藩
戸沢家は鎌倉時代以来、出羽国に勢力を伸ばした名門である。戦国時代には出羽角館に割拠する小大名となったが、「鬼九郎」と称された勇将・戸澤盛安の代になると着々と勢威を拡大した。しかし、盛安は小田原征伐に参陣した直後に病に倒れ、24歳の若さで死去。その盛安の子・戸澤政盛は関ヶ原の戦いで東軍に属したため、存続を許され所領を常陸松岡藩へ移封されていたが、元和8年、6万石で入部し新庄藩を立藩した。政盛は藩政の基礎を固めるために新田開発や鉱山開発、市場改革などを推進。その結果、寛永2年には、領内の実禄が6万石から6万8200石となる。
慶安3年に死去した政盛の後を正誠が継ぎ、新庄藩は最盛期を迎えた。正誠の時代は60年の長きにわたったために藩政が安定し、城下町の完成、家臣の新規召し抱え、領内総検地、貢租体系の改正(天和の盛付)、地方知行から蔵米制への移行(寛文8年)といった改革も多数行なわれ、米収入では元禄13年には13万200余俵、人口では元禄16年に5万8,000余人に達した。しかし、宝暦・天明・天保と飢饉が襲いかかり、年貢収納高は激減し、藩財政は破綻寸前となってしまった。このような中で正令時代の家老・吉高勘解由が正令の遺志を引き継ぎ、緊縮財政・税制改革・養蚕奨励・新田開発などを主とした嘉永の改革を行なった結果、藩財政は再建されることとなった。
慶応4年からの戊辰戦争では開戦当初の4月、新政府側の奥羽鎮撫軍が新庄に入ったため、4月23日に共に庄内領清川に攻め込むが、迎撃され敗走。同年、奥羽越列藩同盟に参加した。庄内藩に協力して新政府軍を圧倒したが、新庄藩の北に位置する久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。新政府軍が再度新庄領への侵攻を期し、庄内藩ら同盟軍が主寝坂峠で防いでいた最中での離脱であり、これに激怒した庄内藩は新庄藩を攻撃、新庄城を攻め落とした。この際、城下町の大半が焼失している。藩主の戸沢正実らは秋田藩に落ち延びている。
明治2年、新政府側への変節による新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5000石を加増された。同年6月には版籍奉還により新庄藩知事となる。 そして明治4年の廃藩置県によって正実は東京に移住し、新庄藩は新庄県となり、その歴史に幕を下ろした。
新庄まつりの始まり
江戸時代は、戦のない平安な世の中であったが、冷害や霧害などの天候不順により飢饉が幾度となく領民を苦しめた。中でも宝暦5年からの「亥年の大飢渇」と呼ばれる大凶作は多くの餓死者を出した。
宝暦6年3月、時の新庄藩五代藩主・正諶は、領民を救うべく幕府から米3,000俵を借り上げ村々に分配し、同年9月25日には、藩主・戸澤家が霊験あらたかな神として代々信仰し、城内に祀ってある天満宮の祭礼「天満宮祭り」を新たに行うことにした。飢饉からの回復と五穀豊穣を願って、神輿を城下に巡行させ、その際、町方からはそれぞれ趣向凝らした「飾り物」を自由に出すようにお触れを出した。
祭り当日は前日までの雨も止んで晴天となり、神輿渡御行列が厳かにも静々と城門の外へ出てくると、各町内で揃えた花傘鉾や思い思いの作り物・旗指物がそれに続いて城下を巡行した。未曾有の飢饉の影響は、まだ色濃く残っていたものの、人々は心躍らせ喜びあったという。
こうして始まった新庄まつりは時代を越えて受け継がれ、254年目を迎える平成21年の3月、国の重要無形文化財に指定された。
近世城郭 新庄城
新庄城は、寛永2年、新庄藩初代藩主 戸澤政盛により現在の山形県新庄市堀端町に築城された平城である。別名 沼田城、鵜沼城と呼ばれる、新庄市指定史跡。
創建時の新庄城は、本丸中央に三層の天守閣、三隅に隅櫓(すみやぐら)表御門・裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。
戊辰戦争後の明治、新庄城は廃され、跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社、郡会議事堂などの敷地として利用されたが、現在では新庄城の面影ほとんど見ることはできない。
図は郷土画家 尾形 芦香(おがた ろこう)(1858~1946年)が、自分の幼いころの記憶を古老の証言で確かめつつ描いたもので、幕末時代の新庄城の様子を今に伝えている。